歌志内線


砂川―焼山―文殊―西歌―神威―歌神―歌志内 14.5q

明治24年(1891年)、歌志内の炭鉱から石炭を運び出す目的で、北海道炭礦鉄道が空知炭山支線(岩見沢〜歌志内)として建設。当初は砂川から歌志内までに駅はなく、5年後に神威駅が開駅、砂川〜歌志内間が歌志内線と変わったのは明治42年(1909年)10月12日以降のことだそうだ。ちなみに他の駅の開設は戦後になってからである。沿線には幾つもの炭鉱が開抗されており、開駅以前から幾本もの引き込み線が有ったようだ。
明治の時代から石炭輸送に貢献した歴史ある歌志内線だが、昭和42年(1967年)以降、相次ぐ炭鉱の閉山により赤字へと転換してしまう。昭和55年(1980年)の赤字ローカル線廃止を打ち出された時には、廃止反対市民会議により一旦は除外を勝ち取ったが、結局昭和59年(1984年)の第二次廃止対象路線の中に含まれ、昭和63年(1988年)4月24日最後の列車を送り出し、100年近くの歴史に幕を閉じた。




歌志内線廃止後に建てかえられた砂川駅、06年7月訪問時は旧貨物ヤードの開発に伴うものなのか改装中だった。向かって左側には新しい建物が併設されている。
歌志内線と上砂川支線からのセキが列を作って停留していた砂川駅の広い構内は、2006年夏訪問時には建設中の砂川市地域交流センターが完成に近づき、歌志内線現役のころからは全く姿を変えてしまった。
砂川駅近くの跨線橋から歌志内方を見ると、線路のはがされた路盤の広い空間が確認できる。
砂川駅を出ると、歌志内線は函館本線としばらく併走していた。ペンケウタシナイ川に繋がる支流の橋梁には、最近まで複線分のガーダーが残されていたようだが一つは撤去されていた。残された方には枕木がのったままである。
その先も路盤に埋まる枕木が残っていた。
砂川駅から歌志内方に向かって二つめの歩道橋(跨線橋)上から函館本線と併走していた部分の空間を眺める(砂川駅方)。
歌志内方を見る。この先で狭まってはいるが、ここまで測線があったのかのような広いスペースが確認できる。
函館本線から分岐する辺りには、歌志内線の線路がわずかではあるが残されている。しかし曲線地点で一旦消滅する。
函館本線から完全に離れた辺りに、寂しげに取り残されたレールがまた現れる。
廃止後16年、草むしたレールの間からは白樺が育っていた。
(04年5月16日撮影)
ここまで成長した樹もある、本当に長い年月を感じる。
ペンケウタシナイ川が河川改修されたため、線路のあった部分は全く変貌し、函館本線から歌志内駅に向かって大きくカーブしていた廃線跡は寸断されてしまった。川を渡った付近から路盤の跡が再び確認できるようになる。
歌志内線も上砂川支線同様に北海幹線用水路をくぐっていた。その箇所には当時からの焼山水路橋があるが、一方の歌志内線は草むし自然に帰りつつある。
水路橋をくぐる少し手前に、小川を渡る小さなガーダーが廃止後も残っていたようだが、調査時には橋台ごと撤去されてしまっていた。しかし付近を探すと外されたガーダーが農機具の残骸と一緒に放置されていた。
写真は橋梁が撤去された部分、橋台ごと綺麗になくなっている。
渡った反対側から砂川方を望む。
放置されているガーダー。
第2号川橋梁だったようだ。表記を見ると「橋りう名 第2号川橋り」となっている。
その先の線路跡はわずかな距離だが農道として利用されている。
交差する道路の先で草むした廃線跡になる。
併走する道路の改良によって路盤は一部削りとられたようである。
更に進むと、工事中の道路に取り込まれながらも辛うじて残る廃線跡が確認できる。2006年春、工事中の道路脇には、撤去されていない勾配標がまだ残っていた。
近影。何パーミルだったのかは判読出来なかった。
2006年10月、焼山駅跡に続く残されていた路盤部分の工事が始められたのか建設重機が廃線跡に置かれている。
重機の傍らには、笹藪から出されたのか錆びたレールが放置されていた。
焼山駅跡手前、廃止後付け替えられた道道が廃線跡と交差する位置に、鉄道標識と思われるものが残っていた。
道道側から線路跡を振り返る、付け替えられた道路の築堤で寸断された様子がわかる。
焼山駅跡手前、旧道道の舗装に踏切跡が確認出来る。
そしてその場所から終点歌志内駅跡まで、廃線跡を利用したサイクリングロードが始まる。
傍らに踏切遮断機の台座が残っていた。
焼山駅跡付近には動輪のモニュメントが建てられていた。ちなみに歌志内線でこの駅だけ砂川市にあり、この先は全て歌志内市であった。そのせいなのか残念ながら歌志内線の駅跡には、終点歌志内駅を含め駅跡を示すものが確認出来るのは唯一この焼山駅跡だけである。
台座部分には歌志内線の説明がある。この碑は廃止の年に建立されたようだ。
このサイクリングロードの休憩室と駐輪場の位置に焼山駅待合いとホームがあった。
廃線跡を利用したサイクリングロードが続いていく。所々に架かっていたガーダーも撤去され、新しいコンクリートの橋へと変わっていた。
バス停のある空き地の下に建つ住宅の辺りに2つめの駅、文殊駅があった。住宅地の造成により盛り土されてしまったのか、今ではどのように駅があったのか解らない。
バス停正面に駅前商店が残っていた。
次の駅西歌駅跡、全く痕跡が無い。
正面の石碑がある辺りに(駅跡の碑ではない)神威駅があった。駅舎は数年前まで町内会の倉庫として利用され残されていたようだが、サイクリングロードの整備で解体されてしまったようだ。往時は2本もの引き込み線を持ち、戦中から戦後にかけ貨物の輸送量で全道で10に入るほどの時期があり、駅員数が60人を超え駅舎は歌志内や砂川より大きかったという。
神威駅の駅舎があったと思われる辺り。真っ直ぐ向かって来る線路跡のサイクリングロードが確認できる。
歌神駅跡、ここも駅があったことを示すものは全く無い。建物は公衆トイレ、奥に見える住宅棟も建て替えられ、往時の雰囲気は感じられない。
そして終点歌志内駅に向かう、サイクリングロードに転用されていた廃線跡は、舗装道路へと変わる。
廃止後歌志内駅跡には郵便局が建ったようだ。新しい建物が並ぶ様子は、そこに駅があったことを全く感じさせない。
しかし向かい側には、当時のからの商店などが立ち並んでいた。
駅正面の建物、元々は何だったのだろうか。廃墟になった様子を見ると、歌志内線廃止の影響は少なくないと思われた。
駅前の通りから駅跡に建つ郵便局を望む。
駅構内跡(郵便局裏側)、石炭車が並んでいた測線や転車台があったことなどは、全く過去のこととなったようだ。
終点歌志内駅から先も、炭鉱の積み込み施設に引き込み線が延びていた。今ではそれらの痕跡も全く確認出来ない。
歌志内線の廃線跡を初めて訪れた時に感じたのは、歌志内市は鉄道があった事を感じさせたくないのではという事だった。明治の時代からの歴史ある路線であったとは思うのだが、サイクリングロードとなった線路跡を除くと全ての駅跡になんの痕跡もなく、鉄道ファンでなくとも寂しい限りではないだろうか。
参考文献: JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くW」、空知地方研究協議会「空知の鉄道と開拓」



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