天塩炭礦鉄道


留萌―春日町―桜山―本郷公園―天塩本郷―沖内―寧楽―天塩住吉―達布

昭和16年12月18日、当初は天塩鉄道として開業。
この鉄道が敷設されたルートは、留萌からわざわざ2つものトンネルを造り本郷の集落に抜け達布へ進むというものだった。最短ルートでは国鉄の羽幌線小平駅から分岐するルートだったのだろうが、北炭が採掘権を持つ天塩炭礦のからの石炭搬出目的で敷設したため、夕張鉄道のように省線(鉄道省)に頼らない独自の線路敷設を貫いたと思われる。また全長24.5キロを2年半で完成させた裏には、タコ部屋労働と呼ばれる強制労働があったことを忘れてはならない。
石炭輸送で建設された鉄道であったが、天塩炭礦の出炭不良により戦後は砂利採取や伐採製材の直営までしたようだ。昭和34年に天塩炭礦鉄道と改称。そしてこの時期廃止になった他の私鉄と同様に、昭和42年7月31日炭鉱の閉山と併せ廃止されてしまった。
なお捕足であるが、国鉄羽幌線乗り場は天塩炭礦鉄道廃止後に同鉄道のホーム跡付近に移動し、それまでは一旦深川方に戻りスイッチバックをして幌延方に向かっていた。
廃止後40近く経った廃線跡を巡ってみた。




天塩炭礦鉄道現役時は各産炭地からの石炭車が並び、港から運ばれた魚類の運搬に賑わった留萌駅も、炭鉱の閉山・運輸形態の変化・国鉄羽幌線の廃止などですっかり寂しくなってしまった。
改札口から駅構内を望む、天塩炭礦鉄道のホームや羽幌線への跨線橋、セキ等の貨物車が並んでいた数本もの測線は全て撤去され、公園として整備されている。往時の賑わいなど想像も出来ないほど変貌してしまった。
その長い跨線橋の2・3番ホームまで以降が綺麗に撤去された様子。
天塩炭礦鉄道の機関区は当時国鉄留萌駅舎と線路を挟んで対向側にあった。その位置にまわってみると、天塩炭礦鉄道廃止後バス輸送の会社に変わった「てんてつバス」の本社事務所がある。
その「てんてつバス」事務所前から留萌駅を望む。駅舎までかなり離れているが、当時はこれだけ広い駅構内だったのだろう。この辺りは最近まで天鉄バスの駐車スペースとして利用されていたが、平成18年の訪問時には留萌市の船場公園として整備されていた。
天塩炭礦鉄道が発車してすぐの風景。ただの更地になってしまいこの辺りを見ても、ここに鉄道があったことを感じない。
留萌駅構内を抜けると線路跡には建物などが建ち一度判然としなくなるが、留萌川付近の踏切跡から築堤が現れる。途中線路跡に立って撮影、写真中央向こうに崩された築堤が見える。
築堤に上ってみた。ここは国鉄羽幌線と併走していただけあり築堤の幅員は大きい。ちなみに右手に数軒の木造住宅が建ってるが、当時の天塩炭礦鉄道の駅員官舎だという。
築堤を進んで行くと留萌川にぶつかる。ここにかつては留萌川を渡る鉄橋があった。羽幌線廃止時点で天塩炭礦鉄道の鉄橋が併走して残っていたようだが、留萌川の昭和63年の大水害により、平成4年にかけて河川改修が行われ、その時にこの鉄橋や橋台を撤去したのではないだろうか。現在はなだらかに整地されており、そこに鉄橋があったことなど感じさせない。
対岸の国道232号線から留萌駅側を望む。羽幌線現役時代はここに跨線橋がありその下を鉄道は潜っていたが、それもいつの間にか撤去され道路はなだらかになっている。
留萌川に近づき留萌駅側を見ると先ほどの築堤が確認できる。
天塩炭礦鉄道現役当時は国道の跨線橋があったかは判らないが、天塩炭礦鉄道はその部分を過ぎる辺りで羽幌線と離れ北へ向かった。すぐにマサリベツ川を渡っていたようだが、この辺りも全く遺構は残っていない。
少し進んでいくと天塩炭礦鉄道跡として初めて確認できる遺構、築堤が現れはじめる。
しばらく築堤が続くが、拡幅された道々に取り込まれ判然としなくなる。この辺りに最初の駅「春日町駅」があったようだが、廃止後40年の歳月で道路が変更されてしまい、地図と景色を何度見比べてもこの辺りとしか判断できなかった。
そして線路跡は完全に現在の道道へと変わる。鉄道はこの先2本のトンネルで抜け小平町へ入り、さらに1つのトンネルを通り終点へと向かった。線路跡を利用した道路工事は未完のためすぐにこの先で通行止めとなる。
最初の第1トンネルの手前で道路は途切れる。奥にトンネルが見えている。
このような感じで道路への転用一歩手前と言った所で工事がストップしている。
トンネルに近寄ると入り口は金網で閉鎖されていた。しかし下部が何らかの力で開けられていた。
内部をのぞき込むと出口の明かりがかすかに見えている。内壁は鉄骨で補強されている。
達布側に回り込んでみた。ここへのアプローチは臼谷の集落から山側に入り込み、未舗装道路を4キロ近く進む。途中山間に農地が続くがひとけは全くなかった。この場所は天塩炭礦鉄道とその道との交差地点、築堤の高さから考えると鉄道の方は跨道橋となっていたのかもしれない。しかし現在は削られ、なだらかな坂となり、鉄道跡の築堤に車で乗り入れることが出来る。ちなみに未舗装の道路はこの先で行き止まりとなる。
築堤に上がり留萌側に戻って先ほどのトンネル出口側を目指す。すぐに少し開けた空間があるが、この場所が桜山乗降場の跡なのだろうか。それにしても全く鉄道以外の建造物も無く、人気の無い場所になぜ駅があったのだろう。
鉄道跡らしい切り通しを抜ける。
路面はかなり抜かるんでおり、4WDでも少々不安になる。
さらに進むと築堤と併走する道が現れ、そちらに下りてみる。春先だったせいかこの先かなり抜かるんできて、スタック及び熊の恐怖で出口側の確認を残念ながら途中で断念した。次回調査は複数の人で行いたいものだ。
先ほどの未舗装道路との交差地点の達布側にはすぐ第2トンネルが口を開けていた。
しかし4キロの人気のない道を進んできて、つのる熊との恐怖にとても単独での歩行を断念し、恥ずかしながらすぐ見えているトンネル抗口までも行くことが出来なかった。
来た道を戻り小平町を達布側へと入り込んだ。今度は第2トンネルの達布方を確認するべくアプローチする道を探した。この辺りは農地で、農道なのか個人の敷地なのかを通過しないと線路跡にはたどり着けない。そして線路跡を見つけ車で少し進んだが、この先からは徒歩でしか行けなくなる。地図ではまだかなり先にトンネルがあるようで、ここも次回複数でのリベンジを期待して断念し残念であった。
戻ると天塩本郷駅方へと向かう廃線跡が切り通しをカーブで抜けていた。どうやらこの辺りに本郷公園乗降場があったらしい。
そしてその先の天塩本郷駅跡に着く。当時は交換駅だったようだが、現在は鉄道関係の遺構は全く確認出来ない。しかし駅前の通りやその辺りの雰囲気がそこに駅があったと想像させる。
今も残る駅前の倉庫。駅がなくなった今はこの場にこのような倉庫が有ることが何となく不釣り合いだ。
駅付近のてんてつバスの停留所。現役なのだろうか。
そこからの線路跡は立派な舗装道路(道々1006号線)へと変わる。そのように線路跡は道路へと転用されたため、途中鉄道の遺構などはまったく見受けられない。次の駅「沖内駅」に近づくと沖内バス停付近から道路と離れた線路跡が確認できる。
線路跡を直進すると沖内駅跡にたどり着く。駅跡付近には「沖内集会所」が建つ。線路跡はさらに真っ直ぐ奥の山へ向かって行く。
かつての駅前から駅跡の集会所を望む。
沖内駅跡から第3トンネルへと向かう農道(線路跡)をはしる。
トンネル直前で先ほどの農道は終わり、路盤跡が確認できる。
第3トンネルは、人が近づきやすい場所だからだろうか、抗口はコンクリートで完全に塞がれていた。
達布側へまわるとこちらも同様に塞がれていた。
近影。ここは道道からも見える位置にはあるが、通常は気がつかないだろう。
道道1006号線を寧楽へ進む。地元の人以外でここが線路だったと気づく人はほとんどいないだろう。
寧楽駅付近、どの辺りに駅があって線路が敷設されていたのか全くわからない。
さらに道道を進むと次駅「天塩住吉駅」跡があった。ここには駅前の農業倉庫が残っていた。
駅前の小さな集落。この天塩住吉駅からは小平蘂川の対岸にあった住吉炭鉱へと続く引き込み線があった。
正面、小平蘂川へと続く道路がその引き込み線の跡。川の手前には炭鉱施設と思われる大きなコンクリートの遺構もあったらしいが、現在そこには農地があるだけである。
引き込み線を小平蘂川まで来るとコンクリート製の何かの土台が残っていた。
近づいてみる。
いったい何の土台だったのか。
対岸へ渡り住吉炭鉱の辺りを詮索した。小高い丘の上に残るコンクリートの基礎。
そこから炭鉱住宅があったであろう場所を望む。現在は農地になっている。
対面の山裾に何かが見える。
近づくと完全に炭鉱の施設の一部だと思われる遺構が残っていた。これこそここに炭鉱があった証拠ではないだろうか。
天塩住吉駅跡に戻り調査を続ける。そこからの先も道道に転用された道を走る。
いよいよ達布の町に近づく。最初に現れるのがこの然別川橋橋梁跡に残る橋台である。
しっかりとした形で残ってはいるが、それに続く築堤は無くなっている。
然別川橋梁から少し進むと築堤が現れ始め、そのまま終点達布駅跡へ続いていく。
写真は旧達布駅の駅前通り、正面に駅舎があった。現在はこの辺りもひっそりとして、とても往時の賑わいなど想像できない。
駅跡に建つ「てんてつバス樺B布営業所」。訪問4年前まではこの横に古い木造の大変味わいのある旅館「紅屋旅館」が建っていたようだが、この時には綺麗に更地となっていた。
営業所看板のアップ。営業所とあるが、訪問(2005年)の前年に「達布連絡所」と変わっていたようだ。
線路は達布駅より先に1キロほど進んだ石炭の積み込み施設・選炭場まで続いたいた。駅跡の先で小平蘂川を渡る橋梁があったが、今は達布側の橋台が残るのみだ。
選炭場側を望むと築堤が残っているのが確認出来る。
その線路跡の築堤もすぐに道路へと改良され消えてしまう。
道道126号線へと変わった廃線跡。今でも残る積み込み施設ホッパのコンクリートが遠くに見えている。
ホッパに近づいた。現在は辺りに何も無いため道道脇に残る姿は異様に見える。この山側には、当時の各施設の土台コンクリートが残っている。



参考文献:JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くY」、ネコパブリッシング「消えた轍1北海道」


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