雄別炭鉱尺別鉄道 尺別〜尺別炭山


尺別─社尺別─八幡前─新尺別─旭町─尺別炭山

根室本線尺別駅から分岐し、尺別炭山(廃鉱)までの10.8`を走っていた雄別炭鉱尺別鉄道。北日本鉱業による開鉱当初から鉄道の敷設は計画され、大正9年から使用を開始したのはナローゲージ(762o)の軽便運炭線であった。当時の官設鉄道釧路線(現JR根室本線)は直別〜音別間に駅がなく、北日本鉱業は官鉄に対し、尺別岐線付近の駅設置を願い出た。大正9年に尺別信号場が設置され、官鉄に石炭積換えが可能となった。その後、尺別信号場は昭和5年に一般駅に昇格。尺別炭鉱は昭和3年に経営権が雄別炭鉱鉄道に移り、雄別鉱業所の支社として経営された。昭和13年には石炭増産により限界となっていた軽便軌道線に代わり標準軌(1067mm)の別線による敷設が計画され、昭和17年に尺別〜尺別炭山間10.8`が開通しほぼ併走していた軽便線は廃止となった。昭和37年地方鉄道に昇格したが、尺別炭鉱の閉山に伴い昭和45年4月16日、50年の歴史にピリオドを打った。
廃止35年以上経ってはいるが、所々に残る遺構を調査した。


JR根室本線尺別駅構内は、当時の貨物ヤードも撤去され草生した空き地が残るだけである。また尺別駅も尺別鉄道廃止翌年には無人化され、駅前に残るわずかな建物のほとんどが廃屋になっており、ひっそりと静まり返っている。
写真は駅前の風景、奥に見える白い建物がJR尺別駅舎で、右手のレンガの建物は財産標の確認はできなかったが、一棟だけ残る鉄道官舎と思われる。
駅跨線橋上から直別駅方を望む。尺別鉄道は右手側に分岐し、300メートルほど先に社尺別駅があったようだ。
JR尺別駅裏の枯れ草が広がる荒野に社尺別駅跡を探したが遺構は確認できなかった。しかし駅跡の尺別側に転車台跡が池となって残っており、この遺構こそ、そこに鉄道があった証である。
国道38号線にまわり、廃線跡に立って社尺別駅跡を望む。国道との交差地点は、現在音別町により立入りを禁じられている。写真中央に太平洋側へと向かう草生した廃線跡が確認できる。
振り返り尺別炭山側を望む。国道を横断した廃線跡は、未舗装の道路となって続いていく。
原野の中を進んでいく廃線跡。
最初の橋梁があった部分は廃止後河川の改良が行われ橋も付替えられたようだ。
先へ進んでいくと道路として転用された部分は一旦終了し、その先は盛り上がった路盤跡が牧草地の中を道道361号線と併走して続いていく。
このような景色がしばらく続く。道道左手の低い築堤が廃線跡。
そのまま進んでいくと八幡神社の入口でまた未舗装の道路に転用される。この辺りに、八幡前停留場があったらしい。
併走していた道道から離れ、未舗装の道路に変わった廃線跡は続いて行く。線路跡らしい景色が続いている。
その先少しの間立派な舗装道路へと変わる。
切り取りを進む再び未舗装道路となる廃線跡。
小さな橋梁部分はガーダーがはずされ、車が渡れるようにと木橋に架け替えられたようだ。
さらに進んで行くと、近所の農家の方のみが利用しているような状態となってきた。
新尺別駅跡に近くなった辺りからは、一般車両では進入不可な状態になり、路盤の跡も消滅してしまう。この写真右手付近には尺別中学校があったと思われ、その先には線路に沿って小学校があったようだが、現在は牧草地のようになってしまっている。
そこから進み、新尺別駅側から尺別方を振り返る。丘の一部が切り取られているのが確認できる。この間を蒸気機関車が通り抜けて走っていたのが不思議である。
そして尺別川を渡る第1尺別川橋梁の橋台が現れる。大きなコンクリートの遺構が、更地となった炭住街に残っている。なおこの先、尺別炭山までに7つの尺別川橋梁があったようだ。写真橋台は尺別炭山側。
尺別側にも残る第1尺別川橋梁の橋台。
新尺別駅方を望むと大きなコンクリートの遺構が見えている。
道道に戻ってみた。
現在は全く牧草地らしき風景ではあるが、当時の新尺別駅直前の商店や炭住の立ち並んでいた場所に、道路を渡っていた跨道橋の橋台部分だけが、遺跡のように残されている。
そのまま道道を走りその跨道橋を通り過ぎると、左手に当時緑町や栄町と呼ばれていた地区に入っていく道が残っていた。そこも現在は広い牧草地と変わり、とてもその場所に町があったとは想像しにくい。荒れ果てた未舗装の道を進んでいくと、栄町があった小高い丘に進んで行く。そこには2棟の建物が忘れ去られたように残っている。
当時機関庫が置かれていた新尺別駅跡。今はそのほとんどが撤去され、農業関係の機械等置き場として広い敷地を持余したようにわずかな部分だけ利用されているようだ。その開けた場所には、給水塔の基礎と、半壊したホーム跡が残っている。
さらに線路跡に沿いながら進んで行くと、道道は途中から未舗装になる。線路は道道右から左に位置を変え尺別川を渡っていた。第2尺別川橋梁は道道が整備された時に撤去されてしまったようだが、第3〜8尺別川橋梁は前後の築堤とコンクリート製の橋台を確認することが出来る。
そしていよいよ尺別炭山の廃鉱が見え始めてくる。道路の状況は一段と悪化し一部崩壊している箇所もある。尺別川対岸に当時の炭鉱施設の跡が確認できる。写真、対岸にわずかに見える構造物は浦幌巻揚線のホームだという。
尺別炭山駅手前から岐線が尺別川を渡り、道道を尺別側に延びていたとのことで、これはその岐線の橋台と思われる。
完全に崩壊しつつある尺別炭山駅。このような状態でも駅舎が残っていたことは奇跡なのかもしれない。ほとんど自然に帰った駅構内の奥には、貯水槽に転用されたという転車台の跡も残っていた。
道道をさらに進んだ場所から振り返って。対岸部分の林が駅の構内で、当時は当然レールが敷かれ、SLや無蓋車・石炭車が並び、大きな石炭積込施設があったのだろう。現在はご覧のようにすっかり自然に戻り、木々の間にわずかなコンクリートの遺構が見えるだけだ。夏の草生した時期は完全に草木に覆われ発見することは困難だろう。
こちら側(道路側)にも何かの施設があったようで、レンガやコンクリート構造物の一部が朽ちて残っている。ご覧のように炭山へ進入する道路は崩れかけている。
駅跡を見渡せる部分も崩れている、ここへの進入は注意が必要だ。
尺別炭山には当時、炭鉱事務所や選炭場石炭積込施設、浦幌からの石炭を運搬するための尺浦隧道などがあった。現在はそれらの朽ちた遺構が、ひっそりと静まり返る山中に残っている。




参考文献:JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩く[」、ネコパブリッシング「消えた轍1北海道」
参考サイト:「雄別の歴史
  ※尺別炭山跡の探索・調査は「廃。」サイト主催の合同探索時のものです。



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