札沼線廃止区間 石狩沼田〜新十津川


石狩沼田―五ヶ山―北竜―碧水―中ノ岱―和―渭ノ津―石狩追分―中雨竜―雨竜―南雨竜―北上徳富―上徳富―石狩橋本―新十津川

現在の札沼線の区間は桑園〜新十津川間76.5kmだが、昭和47年6月18日までは新十津川から先留萌本線石狩沼田まで111.4kmを結んでいた。石狩川左岸には函館本線があり開拓が進んでいたが、右岸一帯の町村の有志が集まり政府に対して、毎年札沼線建設着工の請願を送った。しかし函館本線があるためその重要性に乏しいと採択されなかった。その後地元新十津川出身の議員の力により、強引に帝国議会で採決した。
工事は昭和2年から始まり、営業は竣工工区を4回に分け、札沼北線・札沼南線として部分営業し、昭和10年に札沼線として全線営業した。
札沼線の線路は、戦争の影響を多大に受け、昭和18年10月に石狩月形〜石狩追分間が休止、さらに昭和19年7月には石狩当別〜石狩沼田間が休止となった。これは樺太に建設中の気屯線・古屯線敷設のためのレール転用として使われたのであった。終戦後、石狩当別〜浦臼間は復旧したが、その先全線の復旧は皆目見当もつかぬ状態であった。沿線住民の待ち望むこと10年、昭和31年11月に全線が復旧した。しかし、地方の過疎化やモータリーゼション等の影響で、特に利用率の低かった石狩沼田〜新十津川間34.9kmが昭和47年6月19日を以って廃止されてしまった。現在廃線の跡はそのほとんどが田畑と化し、数ヶ所残るコンクリートの橋梁と駅前のレンガ倉庫がそのわずかな痕跡である。

留萌本線石狩沼田駅から札沼線は分岐していた。 跨線橋も2・3番ホームの線路も撤去されて、すっかりさびしくなった駅構内。 沼田を出ると留萌本線から左にカーブして分かれた(踏切りに札沼線の空間が残る)。 分岐してすぐ、小さなコンクリート橋が残っていた。
その先築堤や路盤は田畑にかわり何も残っていない。
五ヶ山駅跡。
五ヶ山〜北竜間に残るコンクリート橋。 中央小道まっすぐに北竜駅はあった。 碧水駅は会社の倉庫として健在である(駅舎正面側)。
右側レンガ倉庫の前に側線ものびていた。 線路があったホーム側には、農業機械が置いてある。 新十津川側から。線路跡は道路に。 その先国道に平行した砂利道になって残る札沼線跡。
中ノ岱駅跡(築堤がわずか残っている)。 和駅跡には縫製工場が建てられ、駅舎は取り込まれてしまった。 和駅駅舎部分。 北竜町郷土資料館に展示された札沼線関連の資料。
渭ノ津駅跡。 面白内川に残るコンクリート橋。 コンクリート橋から新十津川方にすぐ橋台の片側が残っている。 駅前通りから石狩追分駅遠望。
駅跡は全て撤去されて石碑が建つのみである(駅舎は碧水駅と同じ形であった)。 駅前に残るレンガ倉庫。 中雨竜乗降場跡。 まるで石室のようなコンクリート暗渠が付近に残る。
雨竜駅跡にもレンガ倉庫と石碑が残る。 倉庫前には腕木式信号機がモニュメントとして残る。 雨竜町郷土博物館に残る駅名標・板(雨竜町教育委員会の方ありがとうございます)。 南雨竜乗降場跡はすっかり水田になった(線路は写真中央を真直ぐ山のほうに向かっていた)。
田畑のところどころに小さなコンクリート橋が残っている。 尾白利加川を渡っていた橋梁は撤去されて無いが、橋脚の残骸が崩れて残っている。 北上徳富乗降場跡。 上徳富駅は崩れかけた駅舎と3棟の鉄道官舎が残っている。
新十津川側から。 改札も残っている。 石狩沼田側から。 民間に払い下げられた鉄道官舎。
中央の赤い屋根の家の場所に石狩橋本駅はあった。 徳富川には長大なガーダー橋が今も残る。 石狩沼田側から。 新十津川駅から約150m先まで続いた線路はアパートの前で途切れている。
新十津川駅ホームから石狩沼田方を望む。 今では無人駅となり、駅舎も半分になった新十津川駅。 ホーム側から。 新十津川町開拓記念館に無造作に置かれた上徳富駅名標。
参考文献:JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩く[」、空知地方研究協議会「空知の鉄道と開拓」


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