三井芦別鉄道 芦別〜頼城


芦別―高校通り―山の手―三井芦別―入山―中の丘―幸町―緑泉―西町アパート前―芦の湯―頼城―玉川

昭和15年、三井鉱山芦別鉱業所から出炭した石炭を輸送するため、三井芦別鉄道の前身「三井鉱山芦別鉱業所専用鉄道」が下芦別(現芦別)〜西芦別間を走り始める。その後旅客輸送も開始、第2抗を頼城に開設し線路も頼城まで延長された。昭和35年に合理化のため鉄道部門を分離させ三井芦別鉄道鰍設立させたが、バス輸送の発達などにより昭和47年に旅客部門を廃止、産業構造変革の時代の流れにより平成元年炭鉱の閉山を待たずに鉄道も廃止され、その後平成4年に三井石炭鉱業芦別炭鉱も閉山となった。



JR芦別駅には三井芦別鉄道の発着した3番ホームが今も残り、石炭車で埋め尽くされていた構内は今はひっそりとしている。
芦別駅を出て最初の踏み切りで根室本線から分岐した路盤跡が確認できる。
根室本線南12号踏み切りに隣接して、じぞう町踏切跡があり、踏切基礎も残る。近くにはかつて「高校通停車場」があった。
その先市道と並走していた、路盤跡が続いている。
そして右にカーブを描き、根室本線から離れ、唯一のトンネル芦別隧道がある。
芦別隧道を抜けると高い築堤が続き、一部バラストや枕木も残っている。
そこから線路跡は藪化して進むのに全く難儀しはじめる。どの部分が路盤跡か判然としなくなる辺りに、警笛吹鳴標が残っていた。
藪化のため国道に戻ると、築堤が国道452号線に沿って続くが国道との高低差が生じ、廃線跡には容易に近づくことは出来なくなる。
そこからの路盤には白樺が植林されたかのように、生えそろっている。
その先桜ヶ丘踏切手前に勾配標が倒れていた。
キロポスト?らしきもの発見。
山の手町停留場跡には木柵が残り、3.5キロポストも朽ちながら残っていた。
かつて炭住の立ち並んでいた道路と交差していた踏切跡のほとんどに基礎が残っている。
さらに築堤は続くが、学校の敷地内で消滅しそのまま事務所のあった三井芦別駅(現在は他の会社事務所となっている)跡に続いて行く、そこには駅舎とホームが残っている。
芦別方へのホーム跡も残っている。
この先には機関庫が残っていたが撤去されていた。その辺りは第2頼城と呼ばれ炭鉱施設ホッパーなどもあったが今はその一部分が残るのみである。
入山停留場跡手前に小川を渡っていた橋の橋台が残っていた。
入山停留場跡付近に何かの基礎があった。
その先国道と交差した線路跡に入山踏切跡が確認できる。
つづく炭山川橋梁はそのまま保存されていて、橋梁上にはDLと石炭車が展示されている。
平成16年冬の調査時には展示表示板が倒されていた。
展示施設を過ぎると廃道橋が線路上を跨いでいたが、平成16年には撤去され路盤も国道の炭山川橋梁付け替え工事により一部消滅していた(工事写真中央に展示車両後部が見える)。
その先、国道下に切り通しとなっていた路盤跡は、国道の拡幅により法面に取り込まれてしまった。
やがて中の丘駅跡で、近くには踏切の標識が残っている。築堤が続き当鉄道最大の構造物であった芦別川橋梁に向かう。
路盤跡は一部藪化しているが、春先はバラストが見える箇所もあり大変歩きやすい。
芦別川橋梁は解体され、両岸の橋台だけが現存している。
橋台芦別側から。
同頼城側。
そこから右へとカーブし国道と交差する。交差部分には陸橋が架かっている。
陸橋頼城側に幸町停留場があったが痕跡は確認出来ない。
そこから緑泉駅跡へ向かう途中に、7キロポストを発見した。
緑泉駅跡と構内(現在民家となっている)。
西町アパート停留場も痕跡は発見できなかったが、付近には路盤跡、踏切跡、木柵などが確認できる。
芦の湯停車場跡にはその由来となった共同浴場が残っている。
閉山により寂れた商店街の裏に廃線跡が続き、引上線の橋台も残っている。
頼城構内へと進む手前、9キロポストが倒れていた。
終点頼城・玉川には巨大な選炭場があったが駅舎共々解体され、わずかに貨物ホームあとや駅前のバス転回場、貯炭の山、石炭のかけらが残るのみである。
星の降る里百年記念館に保存されている、三井芦別鉄道関係のもの。
参考文献:JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩く[」、ネコパブリッシング「消えた轍1北海道」、空知地方史研究協議会「空知の鉄道と開拓」






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