三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道 上芦別〜油谷
油谷鉱業専用線 辺渓〜油谷炭鉱


上芦別―三菱上芦別―辺渓  辺渓―油谷炭鉱

明治の時代から石炭の採掘が始まっていた芦別の地域ではあるが、上芦別の地域では大正初期に各炭鉱の開発が始まった。しかし、第一次世界大戦後の不況や世界経済恐慌で炭鉱経営も厳しさを増し、昭和8年には全山休山してしまった。
戦後の昭和22年、石炭増産政策また樺太での炭鉱従業員の引揚者収容に備えた芦別炭鉱の開発に踏み切り、休山中であった各抗を一斉に開抗させ、合わせて上芦別より辺渓抗に至る三菱芦別専用鉄道を昭和24年12月に開通させた。同時に油谷鉱業鰍ェ石炭開発をしていた油谷芦別炭鉱石炭積込場まで辺渓抗駅から分岐線を設置した。エネルギー変革の時代の流れから昭和39年3月に三菱芦別炭鉱は閉山となり、それに伴い鉄道も廃止されてしまった。
現在国道452号線沿いにいくつかの橋梁跡、なまこ山にペンケ隧道と橋脚、それと路盤跡が残っている。

昭和30年代までは駅裏のヤードに上芦別森林鉄道もあった根室本線上芦別駅構内は、往時の広さを偲ばせる。
上芦別駅を出た専用鉄道は、根室本線としばらく併走していた。上芦別跨線橋から望む三菱上芦別方を望む。
三菱芦別鉱業所選炭機のあった場所は近年まで木材加工所として残っていたが、現在は取り壊されてしまった。小さな橋梁が根室本線に平行して残り、選炭場への引込み線跡の橋台も残る。
そこから根室本線と離れ、右側なまこ山の方へ進み、さらに行くと三菱上芦別駅跡がある。ここには給水塔と機関庫が木材工場として残っている。
廃線跡は木工場の原木置場の中を通り、その先はなまこ山運動公園として整備された。
廃線跡には、なまこ山運動公園施設の建物が建ち、パークゴルフ場を抜け空知川橋梁・なまこ山のペンケ隧道へ向かう。
空知川橋梁はトラス2連・鋼板桁2連からなる全長121mの橋梁だったが、対岸の山が毎年10〜20cmもせり出し、ペンケ隧道共々その保守が非常に大変だったそうである。鉄橋は廃線の年に橋脚もろとも爆破されたが、両岸の橋脚一対ずつと橋台は残っている。
ペンケ隧道上芦別側坑口は崩れながらも現存していて、対岸から見る限りでは坑口は塞がれてはいないようだ。
辺渓側坑口は土砂に埋まり上部しか確認できない。
その先辺渓川を渡っていた橋梁の橋台だけが残り、前後の築堤は消滅している。
そこから廃線跡は国道452号線に沿って油谷方に向かって行く。専用鉄道の擁壁と思われる部分までは全く痕跡は無い。
擁壁を通りすぐに弥生橋左側、コンクリートアーチの第一盤の沢橋梁を渡っていた。
さらに進むと第二盤の沢橋梁で対岸に渡っていたが、一の沢林道の改修により上芦別方の橋台?が残るだけである。
林道と分かれた廃線跡は山裾を油谷方に向かう。
国道から盤の沢川の対岸に廃線跡が続き暗渠も残る。
きれいなコンクリートアーチの第三盤の沢橋梁が残る。
そこから国道と交差し左側に路盤跡は続き、第四盤の沢橋梁へ向かう。ここは両側に橋台が残る。
そしてその先に辺渓抗駅はあった。現在は広い敷地が残るだけであるが、朽ちた保線小屋?らしきものがある。
油谷鉱業への分岐点には住宅の基礎やコンクリートの残骸がのこっている。
その先にも盤の沢川を渡っていた橋台が残っていた。
終点から先、ホッパーなどがあった場所にむかって路盤は急勾配を登っていく。付近には現在芦別スターライトホテルとパークゴルフ場がある。
油谷抗方にはずり山が残っているが、そこに続く道路の橋梁部分をよく見ると、ガーダー上に枕木がありその上に土を持っている。
参考文献:JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くY」、空知地方史研究協議会「空知の鉄道と開拓」



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