函館本線上砂川支線 砂川〜上砂川


砂川−下鶉−鶉−東鶉−上砂川

上砂川支線の鉄道が敷設されたのは、大正3年(1914)三井鉱山により坑口が開かれ、石炭運搬のために同8年(1919)に完成した。この路線の建設時にも難工事による過酷なタコ部屋労働が行われていたようである。
開通により出炭・石炭輸送が飛躍的に伸び、上砂川駅の昭和8年(1933)運賃収入は、函館、札幌、夕張に続き第4位だったという記録が残っている。
函館本線の支線として開業したこの区間ではあったが、昭和62年(1987)の三井炭鉱閉山により石炭輸送の使命を終え、その後も旅客営業だけは続けていたが、業績の好転も望めず平成6年(1994)5月16日付で廃止された。
廃止後10年以上の歳月を経た線路跡が現在はどうなっているか調査してみた。



歌志内線も分岐していた砂川駅は石炭車の集積地であり、構内には何両もの貨車が並びとても賑わっていたと思われる。
本線敷設後30年以上経ってから旅客輸送が始まった上砂川行きホームは、砂川駅函館本線のホームから長い跨線橋で結ばれ、離れた場所にあった。味わいある古びた跨線橋は廃止後10年の2004年まで残されていたが、駅裏開発で上砂川行きホーム共々跡形もなく撤去されてしまった。
砂川駅を出るとすぐ大きく左にカーブし、跨線橋と水路橋をくぐっていた。路盤跡にはバラストも残り良い雰囲気がある。
跨線橋下から水路橋を望む。蒸気機関車の煤煙でなのか、中心部が真っ黒く汚れていた。
跨線橋上から廃線跡を望む。2005年春までは目の前の水路橋が残されていた。
水路橋跡を過ぎると、上砂川へ向かう道々と並んで廃線跡は真直ぐ続いていく。
その先踏切部分に残っていた警報機の土台。
線路は道央道をくぐっていた。その前後の路盤は残っている。
その先の踏切跡にも舗装部分に明確な痕跡が確認できる。
踏切の先は草生した線路跡が続いていく。
独特なさび色のバラストが少し見えている。
歩いて行くと、小さなコンクリートの遺構を見つけた。
そして線路は道々に近づきそこから併走していたが、廃止後道路改良により取り込まれてしまった。下鶉駅跡までの区間は、廃止後しばらく残っていた第一下歌志内川橋梁も含め、道々にその姿を変えてしまった。
下鶉駅跡手前廃線跡に建つ下鶉バス停。駅跡は写真中央の車が止まっている辺りにあった。
第二下歌志内橋梁は、美しいレンガの橋台やガーダー、枕木と共に現在も残っている。
春の草木が枯れたままの時は、このようにガーダーやレンガ橋台がはっきりと確認できる。
上砂川側から第二歌志内橋梁に近づいてみた。路盤の跡がくっきりと残っている。
第二歌志内橋梁には渡橋出来ないようにと、砂川町によるトタン塀が設置されていた。
上からのぞいて見た。枕木が載ったままなのが確認出来る。
第二下歌志内川橋梁を過ぎると、線路沿いに鶉地区の住宅が建ち並んでいる。そこは現在でも明確な廃線跡が続いている。
そして駅舎も残る鶉駅跡。駅裏には石積みのホームがしばらくの間残っていたが現在は完全に更地になっている。
その先は国道と併走する廃線跡が確認できる。
東鶉の駅跡に近づくと、また廃線跡は舗装道路へと変わる。写真は東鶉駅跡を砂川方を向いて撮影。
再び舗装は途切れ、未舗装の線路跡が続いていく。
傍らには国有鉄道を表したコンクリートが残っていた。
国有鉄道表記。
そこから住宅の間を抜けていた線路跡は、わずかな未舗装区間を過ぎると終点の上砂川まで完全に舗装された新しい道路へと変わる。
石炭積込み施設や幾本もの側線があった上砂川駅構内へと向かう線路跡。移設されて向きを変えた駅舎と、遠くに唯一残された立て抗も見える。
保存されている終点の上砂川駅舎。
参考文献:
JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くW」、空知地方研究協議会「空知の鉄道と開拓」






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